Column

旅に出よう!

2011.10

 旅は、いろんな事を教えてくれる。若き頃、国内や海外と問わず、一人旅に出るのが好きだった。今も旅好きである事に変りない。
 多分、今から考えると、特に若からし頃の旅は、知識と違ったいろんな体験、そして、感動を通じて、その蓄積が人の経験を深め、そして、随分と大人に育ててくれたと思える。
 そして、思い返してみると、特に20代前半の旅の経験や学んだ事が、今も鮮明に記憶に残っている。恐らく、その経験がその後の自分の生い立ちに大きな影響を及ぼしていると思える。気ままな一人旅は、楽しさより、いっぽうで孤独ながらも、時間にも束縛されず自由な開放感があり、全てが自分の定めところになる。そして、列車の窓辺から景色を眺めながら、とりとめ無き思いにふける。何かしら、そんな自分を見直す時間をくれる旅が好きだった。

始めての旅
 始めて意識をして旅に出たのは、建築見学をした19歳の夏でした。当時、建築雑誌に紹介され、丹下健三の最新作だった東京カテドラルを見学し、そして、代々木のオリンピック競技場と白井晟一の浅草で善照寺を見た。東京の広さ、人の多さ、新宿の高層建築等と大変刺激的で新鮮だった。
 その後、毎休みに成ると旅にでた。当時、学生の定番旅行であった北海道、20間の最初の長期間の旅でした。私は、周遊チケットで、夜行列車と青函連絡船に乗り継ぎ、本州から北海道に渡り、室戸半島から、網走、知床、日本の最果ての利尻と礼文島と、道内を隅々まで周遊し、ただそれだけでロマンを感じ、記憶に残っている。雄大な大自然に感動し、小さな村や漁村での人々の出会いや旅で知り合った一夜限りの出会いにも感動していました。また何度か、山陰地方にも一人旅に出かけた。近さもあり、お気に入りの場所でした。ふと思い立ち、予約も無しに民宿に飛び込む、そんな気ままな旅が自分流でした。
 特に冬の山陰が魅力的でした。冬の海は、賑やかな夏の海水浴の季節と異なり全く人けがなく、薄暗く灰色で荒波が漂う。何とも言えず、うら寂しく、しかし実に美しく、特に海岸沿いの小さな入り江が次から次と展開する風景や、そして、雪山の景色は、日本庭園の原風景がここにあると思えた。
 これまで、現代建築や欧米建築しか目が向いていなかったのですが、この冬山の三徳山、三佛寺の“投げ入れ堂”を見た時、全く興味の無かった日本建築が、実に大胆な発想、そして、その斬新さ美しさに感動し、一見にして、日本建築や日本美のようなもののすばらしさを知った二十歳の目覚めでした。確かに、いくら知識として学んでも、つまりは実感が無ければ理解は出来ず、結果的には、自身の体験と経験でしか知り得ないものである。
 その後も旅癖は収まらず、海外へと意識は広がり、いつしか海外へ建築の旅に出ようと考えていた。そしてその思いは、海外留学に至る。しかし、まだまだ高価で学生が、そう容易く欧米に旅に出向けるような時代ではなかった。
 しかし、22歳の頃、一度、試しにと韓国の旅に出た。下関から釜山にフェリーで渡り、一週間程、韓国を旅した。近くて遠い国だと感じた。お隣の国ながら、言語、風景、服装、食事、文化、習慣、全てが異なり、驚きの連続であり、日本人としての自覚や目覚め、そして、日本の豊かさと自由さを感じた。
  当時は、まだ海外旅と言えば、一生に一度きりぐらいの事で、親や友人達が、餞別をくれる程に、それほど高価であり、まだまだ珍しい出来事でした。最初の海外への旅路から始まり、数年後には海外留学をして、そして今では、いつでも気楽に海外へ旅立、こんなにも国際化が日常的し身近に、これほどにも海外を往来するとは想像も出来なかった。

建築家の夢
 私が、24〜25歳歳の頃でした。建築家を目指し、真面目に設計実務に従事しながら、どん欲に専門知識や海外雑誌をあさり、設計コンペに参加してみたりと結構一途で真面目な建築家志望の若者だったと思います。しかし、知識が増すにつれ、かえって何が正解で何が間違っているのかの判断が出来なく成り、大変迷いが生じて、進むべき道を見失っていた時期でした。そして、建築家に成るには、事務所での設計修行と、その経験と共に上司から学び、いずれは成長するものと考えていました。ふと或る時、やはり良い建築の設計力やデザイン力の方法は、誰からも教えては貰えないものだと気付き始め、自分で学ぶものだと感じました。まだまだ、知識不足で自分の知らない世界も多く、勉学の必要性を考えていた時代です。まずは一度、実務から離れ、再度勉強を始めようと考えました。それならとこれまで見た欧州の建築や知識をより深く知り、その文化体験からデザイン力を身に付けようと思い、安易に海外留学を考えてました。既に30年以上前の昔話に成りますが、当時27歳の私は、1979年から約4年間、スコットランドのグラスゴー大学とグラスゴー美術大学の建築学科であるマッキントッシュ スークル オブ アーキテクチャーに大学院留学をしました。その後の将来に対する多くの貴重な経験と指針を学びえた充実した時代でした。
 しかし、やはりそんな考え方や、勇気と行動を与えてくれたのも、そもそものきっかけと成ったのは、当時24歳でしたが、1976年の夏から冬の4ヶ月間の欧州への建築の旅でした。この欧州への建築旅は、やはり、自分自身が将来に悩み、意識的無意識的に何かしらのきっかけを見つけようとしていた時代だったと思います。日本の経済力が世界に影響し始め、円高が始まり、しかしまだ、相場は固定式の1ドルの交換レートが少し前まで360円で、300円に成り、そして、最大1500ドルまでしか、海外に持ち出せない時代である。現在の学生たちから思えば、想像出来ない時代であろう。調度、70年代の大阪万博が終わり、そして、オイルショックから一気にものの値段が跳ね上がった物価高を経験し、トイレットペパーの買い占めでスパーマーケットから消え、それでもまだまだ、現代の中国のように日本は勢いのある国で、みんなが、あこがれの海外旅行に出始めた時代です。

欧州への旅
 現在からは想像もできないかもしれないが、当時は、東京オリンピック後に一般旅行者の海外渡航が自由化され、日本の若者が海外に出始めた。その第一次世代が、小田実の世代で、何でも見てやろうと日本を飛び出し、野宿をしながら世界を回っていた。第二世代が、安藤忠雄氏に代表されるように、まだまだ航空運賃は高額なため、シベリヤ鉄道経由で欧州にたどり着き、バックパッキンを担ぎ、貧乏旅行をしていた世代です。そんな彼らがその後、旅先でそのまま、現地で日本レストランを開業したりして住み始めた日本人が多い世代です。調度、私は、第三世代に成り、まだまだ、旅の情報も少なく、当時アメリカで旅のバイブルのような『一日10ドルの旅、現在は地球の歩き方』とユーレルパスを手に、安宿と車中やユースホステルを寝床に欧州を周遊していた。
  そして、森有正や辻邦夫、そして小川国夫にあこがれ、勤めていた事務所に無理をお願いして、4ヶ月間の欧州の都市と建築見学の旅に出た。 それまで、大阪で設計事務所に務め数年間、貯め込んでいた全財産を使い、欧州に旅にでた。当時最も安い、ディスカウントチケットが南回りのシンガーポールエーアラインで、乗り換えを繰り返し36時間かかり、最初の訪問地ローマに着いた。翌日早速に、別段大丈夫だったのだが、引ったくりの洗礼に会った。
 そして、見るもの全てが感動でした。ナポリからイタリアの中世都市を廻り、フイレン夏の暑い、シエナの街の全く緑のない石畳のカンポ広場で、日本では考えられない、ひたすら、長い昼休みの終わるのを待ち美術館の入場を待っていた。建物の日陰でただずみながら、本当に旅の経験は、有益なのだろうかと自問していた事を思い出します。遠い昔の事ですが、出来事が次々と思い出される。ベニスから、チュリッヒ、ウイーン、ミューヘンからドナウ川をのぼりハンブルグからボン、コペンハーゲン、ストックホルム、オスロ、大自然のヒィーヨルドを満喫し、ベルゲンから南下して、アムステルダム、そして、リオン、マルセーユ、バルセロナ、アンダルシアのコルドバ、アルハンブラ、セルビア、マドリッドからパリに戻り、ドバー海峡を船で渡り、カンタベリーから最終地のロンドンに辿り着いた。一時は、日本に帰国せずロンドンに、語学研修で、そのまま、観光ピザの切れる6ヶ月間、無謀にも止まろうかと考えた事もあり、下宿先と地区の外国居留者の語学学校を探しました。しかし長旅は、旅の目的も失い始め、2週間程滞在して、やはり、外国にいる事が目的でないと思い、再度、建築家を目指し出直そうと考えた。この長旅は、これからの自分を見直す、いい機会に成った旅でした。

旅から学ぶもの
 過去に訪れた都市、街、場所、建築に再び訪れる機会がある。しかし、場所の様子は同じでも、常にその印象は変わる。それは、誰しも時と共に、ものの見方のや考える事が変わるからでしょう。
 また、旅の方法も年代と共に異なります。例えば、時間がありお金の無い若き時代は、荷物を担ぎ、ユースホステルや安宿に泊まり、食事もサンドイッチ程度で済ませ、次から次にと電車やバスに乗り継ぎ都市を巡るのが常でした。現在では、旅の方法も異なり、高級でないにしても、空港からホテルまでタクシー使い、じっくりと余裕を持って都市を巡り、食事を楽しみ、同じルート、同じ建築を見ても、記憶は重なりますが、しかし、どちらも別物の旅の体験で、旅の新鮮さは変わらず、そして、自分の成長と共に、同じ、街や建築を見ても違った感動と新たな発見があり、2倍楽しめます。
 旅は、自分自身の変化を再確認し、そして、新たな自身の発見とそれを期待して、人は、また、旅に出るのだと思います。
 旅に始まり、いつしか留学に至り、その体験の蓄積が、自身の世界感を広がげ、迷いはあっても、自身の行動や、考え方、思いを信じるそんな自信を与えてくれたように思う。そしてその後、現在は、幾度となく欧州を行き来し、当時に友人や恩師と30年を経ても交流は続いている。

木村博昭 平成23年9月1日(学園だより e-net原稿)