私が初めて建築に目覚め、興味を持ち始めたのは70年代前半である。そして学生時代に教わっていたのは、バウハウスから続くモダニズムの考え方を基礎とする建築教育であった。そして今も、私の建築の見方や考え方の基本となる物差しは、当然このモダニズムにあり、さほど変わりはない。これは90年代の現在の建築教育の現場でも基本的には同様で、あまり変化はうかがえない様に思う。
それは、建築の形態が機能に準じつつ、常に合理性を兼ね備えた、理性的な建築の追求である。もう少し具体的な特色を言えば、建築を六面体の立体物として意識し、光と影の構成を考え、空間構成と構造材やそのシステムが合理性を併せ持ち、外部と内部空間は、一体として連続し、建物全体の質感は、小さなドアハンドルのディテールに至るまで統一した均質空間を求めるものである。言い変えれば、部分を見れば全体像が見え、把握の出来る、システム的に組み立てられた建築である。
しかし時代と共に私は、このモダニズム理念が、これまでに一度切り捨てた曖昧な要素の再考をたどり、より拡張された方向へと展開されていると考えている。かつてミースが語った“Less is more”は、空間の均質性の追求によって生まれた言葉である。それは、ドナルド・ジャッドのミニマル・アートに見るような、アーティストが手を加えながらも一見何もない箱のような存在の、美しいコンセプチャルな空間である。ミニマル化の問題は、究極の時点に至っては、その概念が理解されなければ、または説明文を取り除けば、その建築そのものは、結果として脱個性的なただの箱になりかねないからである。ここでは、感性に訴えれる曖昧性が残された、その境界線が重要である。例えば、F.L.ライトの空間には、横に伸びた長い長押の様な棚やくぼみが特徴的で、なくしてしまえば、ライトらしさは無くなり、マッキントッシュの空間には、マッキントッシュらしい伸びやかな曲線があり、茶室は、自由に配置された開口部や材料で構成されており、これらを合理性でもってどんどんと取り払って行けば何の感動も感じないただの箱になるだろう。画一的なコンクリートの箱の建築であるなら、R.ベンチューリがもじったように“Less is bore!”となってしまうのである。
現代は、電脳的なコンピューター社会へ移行しつつある。そしてバーチャル・リアリティと言う感覚までも仮想体験出来る時代であるのだが、コントロールされ、計算し尽くされた曖昧な点を許さないコンピュータ化は、反面、人間へと近づくこと、より人間的な矛盾をはらむファジー概念を取り込もうとしている。
我々は、二元対比のはっきりしたもの、合理性であるとか、機能上の新たなプログラミングの展開は理解しやすいのだが、不思議なものや曖昧性、偶然性、また記憶を呼び起こすものといった読み切れない、割り切れないものは、分析は可能であっても論理的には捕えにくい要素である。しかしその部分の中に人間性が存在し、人の可能性も秘められているだろうし、単一化出来ない個人の世界観がある。あくまでモダニズムに根差した合理性、機能性を踏まえながら、曖昧性を取り込んだ拡張された概念の建築が求められているのではないだろうか。人の感性に届く空間の質としての関わりや問いが重要ではないだろうか、またポエティックであったり、かつてから建築が持っていた感動とロマンを忘れてはならないのではないか。70年代当時、篠原一男が言った“住宅は芸術だ”の言葉は、非常に衝撃的であったことを覚えている。それまでの常識的であった機能性優先に重点を置いた計画性に対して、建築は利便性よりも空間性が重要であると提唱し、人の感性に訴えるところを強調していたと思う。確かにそこに建築の方向性ががあるのではないだろうか。
(Ks Architects 木村博昭)