Column

関西建築家ボランティアの果たせたこと

2000

 震災から5年の歳月が過ぎ、震災など無かったかのように、平常にに見える。今は、その悲惨さも街の記憶もその痕跡さえも薄れている。いったい我々のボランティア活動で、何ができたのであろうかと思うが、建築に携わる者として少しでも社会に貢献を果たせたこと、また建築家の善意が被災者に示せたことに改めて初期に参加された関ボラメンバー達に感謝したい。そして小さなアトリエ事務所の存在も決して捨てたものではないと確信できたと言える。現在、関西建築家ボランティア(以下関ボラ)の活動は、休眠しているが、関ボラメンバーのシャドーネットワークは、確実に形成され、緊急時に、いつでも再起動が可能な体制が組み立てられたと思える。
 関ボラの発足は、京阪神地区のアトリエ事務所を主宰する若い建築家達の集まりである。参加メンバーの輪は、都市プランナー、建築構造士等、自然と拡がったボランティア組織であり、人道的な緊急的対応の活動で始まった。建築家組織の団体でもなく、本格的事務局の団体組織を形成してたでもなく、呼びかけ人として私が一時のまとめ役になっただけであった。被災者のメンタルケアーを重点に、そして応急の仮設住宅の提案例(プロジェクト解援隊、木造簡易住宅、50万円プロジェクト、B.A.C.Hプロジェクト等)を示し、緊急時には団体的制約のない迅速かつ柔軟性を必要とする状況に対し、フットワークの軽さとチームワークの力が十分に発揮できたと思える。
 自分たちの仕事を手掛けながら休みのない日々を送り、長期化する活動は、体力的、精神的にも疲れをもたらし、経済的にも個人の負担を随分と強いたものであった。本来、初期段階の緊急的な人道的ボランティアをなし得た時点で、我々のその使命はおえていてもよかった。一時期は、60事務所に膨らみ、協力された所員を含めれば200人以上の人が活動に参加していた。そして、長期的視点に立った復興ビジョンが必要な時期に来たと感じていた。当然、我々は、実践的に携わることを望み、最も力を発揮できるのもビジョン提案すること、そうでないと建築家の意味は無かろうと考えていた。行政の進みつつあったプロジェクトが、復興を急ぐあまりの安全性を求めた建替え事業であるなら変わりはないし、地域文化を失い、街の記憶が失われて行くことに危機感を持つた。我々は、少しでも住民意識を高め、あわてずにまちづくりの糸口を掴むことを期待していた。そして東灘区の魚崎地区の小学校に設けられた避難所を拠点に、地区計画の復興に向けてのモデルケースとして捕えたいと思い、この避難所からボトムアップ的な方式による復興への試みた。魚崎地区対策本部と一体で、街づくり構想を推進する復興プロジェクトチームを結成し、住民本位の地区復興が可能なのか、また、住民の街づくり意識をどう高め、コンセンサスを獲ていくかを模索しながら取り組んだ。その後、神戸市の協力と支援により、魚崎まちづくり支援研究会を発足し、地区調査を始めた。まちづくりのための基礎調査を行い、現実的な復興計画を立てる上での課題を見つけ、住民がどんなまちづくりを望んでいるかを知るためのものであった。活動資金も関ボラメンバーの毎回開かれた会議で集められたカンパでまかなわれていたが、我々の活動も認知され、HAL基金から助成を受け、魚崎現地にもの仮設事務所を設けた。
 この時期、関ボラの活動は、大別すると3つのグループに区別できる。一つは加藤晃規氏がまとめ役に、魚崎まちづくり支援研究会の地域調査チームで、学生と協力事務所で6つのブロック担当を決め、きめ細かい調査を行こなった。そして現地の東灘に住む野崎隆一氏をリーダーとする、地元で実現に向けて魚崎市場、そして甲南市場及び商店街の再建や共同住宅のプロジェクトの相談に乗るチーム、そして中井清志氏をリーダーに、従前の酒倉の持つ景観を取り戻そうと酒蔵を復興する会を発足し、元気の出るような計画案や、酒樽を使った写真展のイベント等、の活動が進められていた。しかし一方、現実はハウスメーカーの住宅が、そして行政サイドの復興住宅の建設が、予測通り急速な勢いで進んでいるのが現状であり、現実と我々の意図したことは隔っていた。
 その後は、活動も長期化し、底知れない支援に対する慢性的疲れは、団体としての取るべき方向性を見失い始め、メンバーは団体的行動からリラックスした個人的な活動へと移行していった。結果的にボランティアとは個人的参加であり、それが自然な成り行きである。しかし、活動の背後に仲間達の支えがあるという安心感が残り、その後も、関ボラのメンバー達は何らかの形で震災活動に直面し、被災者に個人的に関わっている。

木村博昭