Column

マッキントシュにとっての日本

2012.07.25

 浮世絵などの日本の影響は、印象派の画家たちについて良く知られているが、同様に日本美術が西欧の建築家たちにも影響を及ぼしたと言えるだろう。チャールズ・レニー・マッキントッシュ(1868 -1928)は、アール・ヌーヴォーからアール・デコに至るモダニズム形成期の時代を先駆けたこの時代の代表的な建築家であるが、そのインテリアとそれに伴う装飾の中にも日本の影響は見てとれる。はじめ日本の影響は、一八六〇、七〇年代から始まる唯美主義運動の中に取り込まれ、一九〇〇年代のマッキントッシュを含む新しい世代に徐々に引き継がれ吸収されたと考えられる。マッキントッシュは、E・W・ゴードウィンやJ・W・ホィッスラーによる日本風の利用を良く理解し、直接的、間接的にも、彼が賞賛した建築家や画家達を通し影響されたと考えられる。

イングランドと唯美主義運動
 一八六二年のロンドン万国博以後、急速に日本の存在が注目され、西欧芸術に影響し始めたと見なされている。そして、一般市場にも日本品が出回るようになる。ロンドンのリージェント通りのリバティ・デパートの創設者であり、デザイナーを育てたアーサー・ラセンビィ・リバティは、始めオリエンタル・ウェア・ハウスの支配人を勤め、この一八六二年の万国博が終わると日本品を買い取り、高収益を上げ成功し、たちまちロセッティ、アルバート・ムーア、ホィッスラーなどを顧客にした。その後、独立して日本人の少年を雇い日本製品を輸入する。一方日本では、一八七六年の廃刀令で打撃を受けた刀鍛冶や彫金職人達は、変わって西欧市場向けにティーポットなど工芸品を創り輸出が盛んになる(1)。 それらの要因が、唯美主義運動の土壌となり、原動力にもなったと思える。そして、一八八七年には、リバティ夫妻たちも日本を訪問し三ヵ月ほど滞在し、画家のアルフレッド・イースト,そして、後に『ステュディオ』誌を創刊するチャールズ・ホルムを伴ったと言われている。後にリバティ婦人は、日本の風景写真集を一九一〇年に出版している。
建築家ゴードウィンは、一八六二年に自邸を建て、そのインテリアの壁面に浮世絵を飾り、そして、一八七七年には、日本物を絵画のオブジェに使ったホィッスラーの自邸であったホワイトハウスを手掛け、それは、外観に日本的装飾は伺えないが白色を基調にした控え目で簡素な建築であった。そしてゴードウィンは、同じ一八七七年に、ウイリアム・ワット社から日本の伝統家具のような黒塗りのアングロ・ジャパニーズ(英国風日本様式)の家具シリーズを発表している。その翌年には、バタフライ・キャビネットの家具デザインを行い、ホィッスラーがその日本的装飾を行っていた。また同じ一八七七年に、トーマス・ジャケルが設計したF・R・レイランドのピコック・ルームは、ホィッスラーがその日本風の装飾画を描き、ゴシック・リバイバルと日本趣味を掛け合わせた唯美主義運動の代表的作品となる。彼らの作風に、日本ものが直喩的に表現され、その影響は明らかである。後の一八八四年には、ゴードウィンもリバティの婦人服部の顧問兼デザイナーになっている。

グラスゴーと日本
 グラスゴーと日本の関係は、一八七二年に新政府の視察団であった伊藤博文を含む岩倉使節団の一行がグラスゴーを訪れ、造船所、機械工場等を視察している。早くから軍艦、商業船、そして、蒸気機関車などグラスゴーから輸入されていた。この都市の姿を日本の産業国家へのモデルとして見たのだろうか。当時グラスゴーは、大英帝国第二の都市であり、技術革新の中心地で、特に工業の加工貿易で経済力を得て、電気、建築材料などの開発と科学技術が日夜発展を続けていた。人口や市街地は、膨張をたどる活力のある近代的な都市であった。我が国からも幕末から明治の初頭に、高度な技術力の習得を求め、留学生が派遣された。例えば、一八六六年から造船学をグラスゴーで学んだひとりである山尾庸三は、六八年に帰国後技術者養成のため工部寮を組織し、そして、グラスゴー大学教授のW・J・M・ランキンの弟子で、土木・機械工学を修めたヘンリー・ダイヤーを教頭に迎え、一八七三年に工部大学校(後の東京大学)を設立した(2)。
 一九〇一年の新世紀に開催されたグラスゴー万国博は、我国も大々的に参加しており、会場のメインホールの建物に隣接して、外観は日本風でないが、ホワイトハウスのモダンに見える日本館が建っていた(3)。また『ステュディオ』誌には、出品された工芸品の特集記事が掲載されていた。その展示品の一部は、現在もグラスゴー市のケルビングレーブ美術館に残されている。マッキンットシュも展示ブースなど設計していたが、この博覧会のメイン・パビリオンの設計競技に参加し、大胆な計画を提案していた。そして、この会場に建つ白い日本館をおとずれ工芸品を鑑賞しただろか。
 また当時、日本を訪れたアーティストも多い。グラスゴー生まれの唯美主義運動のデザイナーであったクリストファー・ドレッサーも、一八七六年一二月から翌年四月まで日本を訪問し、各地の工芸品を収集している。そして、ケルビングレーブ美術館にある日本のコレクションは、その一部だと言われている。ドレッサーの息子ルイスは輸出入業を行い、日本に住まい、後に帰化する。その後ドレッサーは、一八八二年にグラスゴーのアートギャラリーで「日本の芸術」の講演をしている。またリバティは、このドレッサーが設立したアート・ファニチューア・アライアンス社の投資者でもあった。
アレクサンダー・リード(1853-1928)は、画廊ラ・ソシエテ・デ・ボザールを一八八九年に設立し、優れた印象派をグラスゴーに紹会した画商である(4)。ファン・ゴッホの友人で一時期寝食を共にし、その時に描かれたゴッホの小さなリードの肖像一八八七年が残っている。そのリードの援助によって、グラスゴー美術学校で学んだグラスゴー・ボーイズと呼ばれたスコットランドの若い芸術家グループであったジョージ・ヘンリー(1858-1943)とE・A・ホーネル(1864-1933)は、一八九三年から九四年かけて日本を訪れた。 帰国後、ヘンリーとホーネルは、マッキントッシュが一八九三年に改装を手掛け、グラスゴーの芸術家達の社交の場であったアート・クラブで日本を描いた作品の展示と講演を行なっている。事務所パートナーであったジョン・ケペとホーネルは親友であり、グラスゴー美術学校の同世代の先輩であり、マッキントッシュも恐らく聴いていただろう。そのホーネルのポートレイト写真を見ると、ゴッホの自画像と同じように背面に浮世絵を飾り、写されている。彼らの身の回りに浮世絵を飾るのは、当時のアーティストや建築家の流行のようである。このような交流や出版物を探れば、英国だけでもいくらでも見つかるし、明治維新に西欧から多大な影響を受けたように、西欧文化にも影響を与えたことは確かであろう。そして、マッキントッシュ以外にもイングランドやグラスゴーの建築家たちにその内装や装飾に日本の影響は見られる(5)。
 
マッキントッシュと日本
 マッキントッシュと日本の関わりを知る手がかりは、一九〇〇年にデザインされた一二〇メインズ通りのフラット(120 Mains street Flat)のマッキントッシュの自邸のインテリアである。それは、彼が最も影響を受けたアーティストでザ・フォーのメンバーであったマーガレット・マクドナルド(1864-1933)と結婚し、それに伴う 二人の新居であった。この建物は、ビクトリア様式のものでその室内を改装し、彼らの独創的な空間を演出している。ちょうどアール・ヌーヴォー様式からの離別を意識した転換期となった作品でもある。最も、アバンギャルドの作家として、ヨーロッパで注目をあびていた時期で、その年にウィーンのゼゼッションに招待されていた。その自邸のインテリアを『ステュディオ』誌(6)に発表している。その掲載された写真を注意深く見ると、日本的趣味の伺えるインテリアで、この新居の最もデザインに神経を注いだと思える居間のその中心にある暖炉の上には、白い正方形の額に入った小さな日本の版画と茶碗のような陶器が対に飾られ、壁には浮世絵を掛け、室内に植物で飾り、しかし、花を飾る西欧従来の作法と異なり草木を楽しむ日本の生け花のようである。また室内のインテリアは、壁面を日本風の真壁構造の木造建築の和室のように付け柱と付け長押のある巧妙にあしらいそれを白く塗り、壁面を装飾的に表現していたのである。そして、椅子や家具も、当時の重量感のあるビクトリア朝の骨太の猫足の掘りのあるがっちりとした家具とは異なり、ゴードヴィン風の細身で華奢で板材と棒材を組み合わせ、家紋を示すように透かしや貫きがあり日本の伝統的な家具・道具類に通じるようである。後に彼らは、メインズ通りのフラットから一九〇六年にサウスパーク・アベニューのテラス・ハウスに移り住むのだが、白い暖炉や造り付け家具のその内装も共に移すのである。そして、その居間の長押を回しオープンに2室をつなぐ開口の取り方も、和室のつづき間のようで日本的である。その後このテラス・ハウスも取り壊されるが、オリジナルな暖炉や家具のインテリア装飾は遺され、現在、グラスゴー大学付属のハンタリアン・ギャラリーに、彼がデザインし愛用した家具とともに再現保存され、その日本的趣のインテリアは残されている。しかし、マッキントッシュとマーガレットの日本趣味は、このふたりの新居をかまえる以前から伺えた。マッキントッシュの寝室には、暖炉上の壁に浮世絵を掛け、壁に着物を着た女性のステンシル画が描かれていたし、マーガレットの住まいであったダンバートン・キャッスルの居間の暖炉にも扇が飾られていた。そして、マッキントッシュの絵の中には、しばしば「キモノ」を着た女性が描かれたし、また、ウインディー・ヒルの子供の為にデザインされたキャビネット家具は、袖を拡げたキモノ型である。その後も、扉が両サイドに開くキモノ型キャビネット家具は、幾つかデザインをしている。グラスゴー美術学校の正面に施された鋼製フェンスの装飾のようなシンボリックな円盤は、刀の鍔のようであり、紋のようにも見える。マッキントッシュのインテリアや家具のデザインに、しばしば見られる抽象的な円や角の装飾は、日本の紋章を思わせるものである。それは、紋と同様に、幾何学形態や花、葉、蝶、鳥などの自然の形を抽象化したシンボルで、それを装飾的に建物や道具、衣類などに用いられ、日本的なデザイン方法と同じようである。この紋のよう装飾は、T・ジャケルの暖炉装飾にも見られ、また、ゴードウィンの壁紙やホィッスラーのサインマークも伺える。マッキントッシュの場合は、日本のモチーフが唯美主義運動のデザイナーたちのように模倣され、直喩的に作品上に現われるよりも、彼特有の抽象化とそれを独特に変換し、消化されたものとしてデザイン展開がなされたと言えるだろう。
 マッキントシュとっての日本は、彼のデザイン発想の源であった
ことは確かだろう。晩年は、徐々にその影響は失われるが、もっとも脚光をあびた一九〇〇年前後に恐らく日本美術が重要な役割を果たし、感性の起爆材として、モダニズムへの突破口となる具体的な形となるきっかけを与えたのだろと思える。

(木村博昭)

(1) Victor Arwas『リバティースタイルの勝利』The LibertyStyle 展、国際芸術振興会 一九九九年、一七〜二三ページ 
(2) 鈴木博之、『グラスゴーから日本へ』C.R.Machintosh展、国際芸術振興会 一九八六年、00〜00ページ 
(3)一九〇一年グラスゴー万国博公式案内書、によれば、会場の地図に日本館を見ることが出来る そして、陶器、金属細工、象嵌、木工品、家具、織物、装身具等工芸品と食品の大阪寿司や醤油など約100点が出品 された。
(4) グラスゴー美術館所蔵、油彩、アレキサンダー・リードの肖像、一八八七年、ゴッホよる点描の技巧によるもの。リードがゴッホの兄テオが勤めた画商に見習いとしてパリにやってきた一八八六〜八七   年時期に描かれたもの。
(5) 木村博昭、「日本の影響」『プロセス・アーキテクチュアー、 CHARLES
    RENNIN MACKINTOSH』五〇号、一九八四年、一一三〜一二七ページ
(6) C.R.Machintosh.120 Main St. Flat The Studio, 1900, 00〜00.ページ に掲載。 写真家、トーマス・アナンの撮影。