Column

JA 2005-SUMMER より

2005.07

しばしば、建築を評する時に何々風と語られ、たとえば、ル・コルビュジェ風とかミース風、ライト風とよく使われ、曖昧ながらもその建築の固有性を示している。これらも、「らしさ」を除けばただの無機質な同じような空間になってしまう。当然、建築のディテールとは、設計者の固有性が強く表現されたものであり、具体的な特性を示すもので、まさしくディテールを似せることのよって、それらしき作風の建築になってしまうのである。
私の世代では、建築のあるべき姿として、ディテールをドアノブの形から空間表現に至る一連の連なるべきものとして学んだ。しかしながら現在にあって、性能、価格、安全性から見ても、多種多様の規格のプロダクト品があり、千差万別の選択や組み合わせが可能な時代である。いつしか私自身も気づけば、日頃の設計行為の中で、メーカーの規格品の選択や組み合わせを無意識に行ってしまっている。
規格品の使用を拒むことは、かえって不合理でもある。ただ、性能は保証できても、その建築の固有性は薄れていくのは当然である。その一方で近頃は、あらゆるものに匿名性よりもデザイナーや制作者の顔、履歴が見えるものにその信頼と安心感をおぼえている。そして、メーカーの規格品や、プロダクト製品では味わえない、手工の温もりや素朴さが美徳とされ、モノと人との関わり方が再考されている。それは、かつてのアーツ・アンド・クラフツ運動のきっかけとなり、バウハウスに繋がる、J.ラスキンが主張した手作業を通して美を創造するという、建築のひとつの道徳的基準を打ち立てた時代にも似ている。
最近、アアルトの建築を見る機会があった。家具からディテールに至まで、アアルトの建築そのものであり、既製品は何もない。そして彼のその固有性と世界感を通して、時間を超えた空間体感として伝わり、感動と居心地良さを感じたのである。この固有性の重要性を再確認させられたのである。住宅は特定の場所とクライアントに対する提供であり、この世界にただひとつの存在である。やはり建築とそのディテールとの関係は、人に触れる感覚的にもっとも近い部分であり、このディテールの試行錯誤が経験値の蓄積によって、結果として作風が築かれ、機能を越えた魂や感性に響く居心地良さを決定する重要な要素であろうと考えている。もはや固有性を求める時代でもないかもしれないが、だからこそ、特に生活に密接に関わる住宅には、空間からディテールの連続性があってほしと思うのである。